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平成31年度 入学式式辞

次のような式辞を述べました。

本日、隠岐教育事務所長吉田貴弘様をはじめ、多くの皆様のご臨席を得て、入学式を行うことができますことを、まずお礼申し上げます。ありがとうございます。

小学部に入学された2名、高等部に入学された4名の皆さん。ご入学おめでとうございます。

明日から、隠岐養護学校での学習が始まります。

入学にあたり、隠岐養護学校で取り組んでいる「学び」について話をします。

そのために、二つの言葉を使います。一つは「見通し」もう一つは「習慣」です。

入学生の皆さんだけでなく、在校生も、新しいことに取り組むことに不安を持つものです。また、毎日様々なことに取り組むと、不安は大きくなってくるかもしれません。

ですので、隠岐養護学校では、毎日基本的には同じ目的の活動を同じ時間に行うようにして、みなさんが次は何をするのかが分かるように取り組んでいます。

何をするのか分かるというを「見通し」をもつといいます。そうすることによって、不安をやわらげ、自分で行動できるようなることを狙ってのことです。

見通しをもって、活動をくりかえすことで、行動が身についてきます。身についた行動を習慣といいます。

見通しをもち、自分から行動を行動できるようにして、そして習慣化する。これは、「知っている」「わかった」というレベルではなく「できる」というレベルを追求することです。根気がいる活動です。

根気がいるからこそ、多くの先生方が皆さんとともにあるのです。

たとえば、挨拶をする、片付けをする。そんな基本的なことができることで、どれだけ生活の混乱が防げるのか、また、人の信頼をかちとることができるのか。この会場におられるすべての方々に同意いただけることだと考えています。

隠岐養護は、そんな今の生活、将来の仕事に必要な行動を習慣化することをめざす学校です。 小学部にあっては12年後、高等部にあっては3年後の生活を想定しながら学びを進めてまいります。保護者の皆様、隠岐養護学校はそのような目的の学校であることをご理解いただき、ともに手を携えて取り組んでいきましょう。

本日ご臨席をいただきました皆様、本校の児童生徒の成長には、日々の生活の充実をめざす取組や現場実習先の確保など大切になります。 現在、本校の卒業生の多くは、隠岐の地で仕事をし、それぞれの場で力を発揮しております。そのような流れが継続できますよう、お力添えをお願いいたしまして式辞といたします。

生活を楽しむこと

隠岐養護学校長

赤山克司

 中学部の2名、高等部の7名の皆さん卒業おめでとうございます。楽しかった行事、後悔が残るトラブル、その一つ一つが皆さんを支え、そして鍛えての卒業です。

 今日いいと思ったことが、実はトラブルのもとであったり、失敗と考えた経験が、次の成功に必要であったり、ことの善し悪しは後にならないと分からない。そう考えると、自分が今できることを丁寧に楽しみながら暮らし、少々のことには一喜一憂しないようにするにかぎります。

 朝気持ちよく起きて、おいしく朝ご飯を食べ等々。ありふれたことを「よかったね」と積み重ねていくということです。仕事を含めて「生活を楽しむ」と言い換えてもいいかもしれません。

 そのためには、できる限りトラブルを少なくしたい。たとえば片付けで食器を割ってしまうことを防ぐこと。そのことだけで、掃除の時間等の手間をはぶくことができます。では、どうしたら食器を割らないようにできるか。私は、食器を最後まできちん見て片付けること、それが丁寧に扱う秘訣だと考えています。

 日常生活で一番の困りごとは、人との関係です。人との関係を丁寧にすることを考えなければなりません。どうすればいいのでしょう。

 食器の例と同じように、相手をきちんと見ることが基本だと思います。自分が機嫌がよくても、相手はどうだろうか?そんな想像力があればいいなと思います。見るだけでなく、丁寧な言葉遣いができれば、さらにいい。

 しかし、「丁寧な言葉遣い」ができるには実はいろいろ条件が整わなければならないようです。ある生徒の言葉づかいの変遷を紹介してみましょう。

 その生徒は入学当初、校長先生を「くそじじい」と呼んでいました。それが「じじい」「じいさん」「校長」「校長先生」に変わり、生活も落ち着いてきました。生活が言葉づかいを変えたと受けとめています。

 この例と同じようなことが、最近ありました。ある生徒がきちんと「〇〇先生」と呼びかけたのです。それだけと言えばそれだけのことですが、そのことに生徒の成長を感じました。卒業に間に合って良かった。本当に良かった。

 丁寧に声がけをすることで、相手はきちんと向き合ってくれます。でも不安などがあると、できないもののようです。卒業する皆さん、君たちは十分手間のかかる階段を上ってきました。困っても相談できれば、大丈夫です。しりごみすることなく、毎日きもちよく起きて、食事をおいしく食べ・・生活を楽しんでください。卒業おめでとう。

岐楽市へのアンケートから

 隠岐養護学校長

赤山克司

 2月16日 サンテラスにおいて本校高等部の作業製品販売会「岐楽市」を開催しました。

 開始時間の10時から多くの方々にお越しいただき、生徒、教職員共々大変うれしく、大き励みを得ました。誠にありがとうございました。

 来場の皆様にアンケートをお願いしたところ、82通の投函がありました。

 それをみると、生徒の接客については「挨拶がよい」「丁寧なことばづかいや態度である」という評価を、製品については「丁寧につくってある」という評価を半数の方からいただいきました。

 記述欄にも多くの意見をお書きいただいています。

 製品については、次の通りでした。

  四角い皿、平皿の大きい物など焼き物の形状に関するもの

  モノトーンの鞄などさをり織りのデザイン・色合いに関するもの

  木工製品をより多くという数量に関するもの

 価格についても複数の意見をいただきました。

 一例を紹介すると、 「値段が安いです。良い物にはそれに見あった値を付けることで、作った方の自信につながり、作ることへの向上心につながると感じます。」

 本当にありがたいご意見と受けとめています。今回開場15分で売り切れた木製ベンチの値段を付ける当たっては、上の意見のように「妥当」と思われる値段付けに苦慮いたしました。

 より多くの人に購入してもらいたいという思いが強くありますので、なかなか値付けは難問です。

 もっと使い勝手がよい形状、雰囲気をかえた色・デザイン、そして数量確保と値段づけ。考えていくと、まだまだ工夫の余地がたくさんあります。

 すべてにはお応えできないのですが、改善に努めてまいります。

 11月の隠岐養護まつり、2月の岐楽市へのご来場をお待ちしています。

校外コンクールがくれる力

隠岐養護学校長

赤山克司

 隠岐養護学校の高等部は、全国障害者スポーツ大会をはじめ、町内の陸上大会、駅伝大会などに積極的に参加しています。

 文化的な活動での校外コンクールへの応募・参加は、中学部・高等部ともに書き初め展や町内の人権書道コンクールに限られていましたが、昨年度から中学部の絵画を各種コンクールへ積極的に応募し始め、その一つが先ほど全国教育美術展の特選に選ばれました。

 作品を描いた生徒・家族の喜びにとどまらず、職員室の教職員も一様にうれしく受けとめています。

 校外から認められることは、生徒に意欲を与えてくれます。一例を紹介します。

 高等部の男子生徒なのですが、本校入学当時から実習の報告書など、しっかり書いてほしい書類の文字が、本人も残念だろうなと思う状態がつづいていました。

 学年を重ね、現場実習や、児童生徒会行事やスポーツ大会での活動などの積み重ねの成果が影響したのでしょうか、近頃「丁寧に書こうとしている」と感じられるようになってきました。

 そのような時に、校外の書道作品展で本人が期待していなかった「入選」を果たしました。2学期の終業式の前に表彰式を行った際、入賞者の名前に自分の名前があったことに驚き、そしてとてもうれしそうに賞状を受け取りました。

 その反映なのでしょう。1月の書き初めでは、他の生徒に見劣りすることのない書きっぷりでした。経験の積み重ねが自信となってきた頃、タイミング良く、校外からの評価を得たことで、勢いがでてきたようです。

 いつも見ている教員からの評価では得られない効果だと思います。

 平成29年度から地元新聞社の支局長さんから、本校の窯業の製品を県展に出してはとの提案を受けています。

 なんとなく先延ばしにしてきたのですが、平成31年度は出展できるよう、出品要件、時期などを確認し、準備をしてみようかと考えています。

 次年度の校内の活動が落ち着いたと思えた頃合いに提案してみましょう。

仕事の切り出し

 隠岐養護学校長

 赤山克司

 現場実習先を経て、就労に結びついた卒業生の仕事内容はどのようなものでしょうか。 

 たとえば、レンタカーの洗車、スーパーなどでの品出しなど、多くの仕事がある中から、取り組む業務を選択し、専念させてもらっている場合が多くあります。そのように、企業・事業所で行われている複雑な業務の中から、本校の生徒や卒業生に取り組んでもらう業務を選びたすことを、就労支援に関わる方々は「切り出す」と表現されます。 

 学校がそうなのですが、「忙しいから人に頼むより、自分でやった方が早い」と、「忙しそうだから、手伝ってくださいとは言いにくい」が絡まり合って、どんどん仕事が自分の中でたまってしまう状況が多くの職場であるように思います。 

 一度「忙しい」の負の循環に入ってしまうと、脱することは難しいものですが、大まかにいって、「やる必要のないことはしない」、「人にお願いできることは任せる」の二つが対処方法になるのではと考えます。 

 これまでの私の経験からですが、「やる必要のないこと」「人にお願いできること」は、職場の議論では決着をみません。これは、えいやで方針を決めてしまうに限ります。先ほどの「切り出す」という表現のすばらしいところは、「えいや」という決断のにおいをともなっているところだと感じています。 

 「切り出された」「人にお願いできること」の中にこそ、本校の生徒、卒業生の就労チャンスが埋まっているのです。一つの企業や事業所では十分な量を「切り出す」ことができなくても、複数の事業所がまとまると、そこに仕事の塊が生まれます。 本校にもワークステーションという障がい者雇用の場があり、本校の環境整備などに加えて、近隣の高校の寮の環境整備などを受け持っています。 

 大きな事業所は単独で、小さな事業所は複数で「切り出し」ができると、誰にとってもプラスになるはずです。 

 このような見方を阻害しているのが、目の前の「忙しい」です。「忙しさ」を分析し「切り出していく」ことの有効性を、就労を継続している卒業生が身をもって証明しています。 

 現場実習をお願いする一番の説明は、働く卒業生の姿なの働く卒業生の姿なのですが、仕事の「切り出し」という言葉も添えて理解を進めていきたいと考えます。

現場実習先の確保

隠岐養護学校長

赤山克司

 21日から高等部の、22日から中学部の現場実習が始まりました。

 現場実習を引き受けていただける企業や事業所は、本校の教員が、つてを頼ってお願いしています。

 本校には、地元の高校勤務経験が長く、地域に顔が広い教員がおられるので、、教員による実習先の開拓が比較的うまくいっている学校ではないかと感じています。

 しかしながら、生徒の希望職種や実習希望地域をかなえるには、正直限りがあります。

 今回、島前地区及び松江地区での現場実習を行っています。一方は島前出身者が将来的に地元に帰れるようにということで、もう一つは希望する職種が島後地区には確保しずらいため本土での実習となりました。

 島前地区については、地域の商工会事務局長様の紹介を受けたもので、松江地区のものは、本年度赴任した教員のこれまでの勤務校でのつながりで実習を実現させたものです。     

 実習先に目処をつける活動として、会合などでお会いした方々にお声がけすることと、実習をお願いした先との関係が切れないように努めていくこと、概ね二つの活動があります。私としてはいったん受け入れていただいた企業などとの関係を継続する活動を大切にしています。

 関係を継続するための最も大切なことは、受け入れ企業等からいただいた厳しい評価を受けとめ、どのように学校生活に生かそうかとしているかをお返しすることです。そのキャッチボールを通じて、企業と学校間の相互理解の端緒が作られると考えるからです。

 そのようなキャッチボールの中で、学校の取組に理解が得られるのであれば、もしかして、口コミという形で、他の事業所などへ伝わるかもしれません。良い評判であれば望ましいことですが、逆であると大変憂慮すべき事態です。なぜなら悪い評判は学校へは届かないもので、気がつかないのは、学校だけという厳しい状態が生まれてしまうからです。    

 厳しい意見を直接伝えていただける関係を企業と作っていくためには、厳しい意見こそが学校にとって必要だという姿勢を、教職員がもっていなければなりなりません。

 その意味で、現場実習は生徒よりも、教職員が試されている場であると考える必要があります。

 「企業の努力」を言う前に、「教職員の聞く力」の向上が必要なのでしょう。学校に定着するよう取り組んでいきます。

現場実習決意表明会 目標を立てる力

隠岐養護学校長

赤山克司

 1月21日から中学部と高等部は現場実習に入ります。中学部は3日間ですが、高等部は、実習先との話し合いにより、5日の場合から15日という長期にわたる場合と様々となっています。

 1月19日、それぞれの実習の場所や内容、そして実習中の目標を発表する「現場実習決意表明会」を行いました。

 現場実習も今年度3回目。1・2学期にそれぞれ10日、計20日行っていますので、1学期の決意表明会で発表した目標に比べ、それぞれの実習先に応じたもの、より具体的な内容に変化してきています。

 一例をあげると、高等部1年の1学期に、「しっかり挨拶をする」という目標をたてながらも、「では、元気よく挨拶してみてください」という教員の問いかけに応じることができず立ちすくんでいた生徒が、「シーツをたたむ時に、相手とペースを合わせる」という明確な目標を、はっきりとした声で発表できていました。

 私は隠岐養護学校での勤務が通算5年となりました。その間行われた「決意表明会」にほぼ全て参加してきています。その経験から言うと、最初は「がんばります」「集中して取り組みます」という曖昧な目標が、「分からないことは質問します」「できたら報告します」にかわり、「昼休み、話ができるようにしたい」であるとか「職場の人の動きをみて自分も動く」のように、職場になじもうとする具体的な目標に進んでいく傾向があります。

 そして、具体的な目標を発表できた生徒は、職場での評価もおおむね高く、卒業後の就労につながる場合が多いと受けとめています。

 では、具体的な目標を発表できる生徒と、なかなか目標を立てられない生徒の間にある差は何なのでしょうか。

 数少ない高等部の生徒から、その答えを導き出すのは危ういことですが、授業にきちんと向き合えている生徒、行事を楽しめる生徒であるとは言えると思います。

 授業も現場実習も、教員や職場の人からの「これに取り組みましょう」という働きかけに、対応していく行動です。得意なこと、苦手なことがあるとしても、働きかけを自分なりに理解し、具体的な形にしていった経験の積み上げの多寡が生み出す差は、そう簡単に覆るものではないと私は考えます。

 自分の思いより、他者からの働きかけをまず優先する。それができるようになった生徒が現場実習での具体的な目標を立てることができているといえるかもしれません。

 そのように考えると、活動や教員・保護者などからの言葉かけにより、自分に自信がもてるようになり、自信を糧に、他者が楽しめるような活動を自ら立案していく活動ができるようになることが大切なのかもしれないと考えます。

 遊んでいるような活動の中で、人が楽しんでいるかを確認し、うまくいったなと満足できているなら、それはきわめて効果の高い教育活動となっていると考えることができるはずです。    

 できないという経験の中で、ちじこまってしまいがちな心と体を、楽しさで解きほぐす経験を重視していきたいと「決意表明」を聞きながら考えていました。

読解力という力

 隠岐養護学校長

赤山克司

 算数や数学を勉強するのは好きでしたか?または好きですか?

 私は、高校時代、行列と微積に歯が立たず、正直苦手意識があります。

 なぜ数学かというと、11月の校長会の研修で行われた文部科学省の方の講演のなかで、大学教育における「文系・理系」という区分けを取り払って行く方向で検討が始まっている旨の説明を聞いたからです。

 「文系・理系」の区分けを取り払っていくとは、理数系科目をしっかり学ぶ方向にいくという意味なのでしょう。

 大学教育でそうなら、高校でも理科系科目の重視が進められることが予測されます。確かに産業を支えるためには、数学の理解が必要なことはなんとなくわかる気がします。

 ただ、自分自身の経験などから推測すると、理数系を負担に感じる生徒に対して「必要だから」だけでは、学習に向かいにくい生徒がでてくるはずです。

 やれやれと思っていたところに「AI VS 教科書がよめない子どもたち」(新井紀子著)に出会いました。

 新井さんはAI(人工知能)技術を利用して東京大学への合格を目指す「東ロボくん」プロジェクトの代表者で、AI技術で何が可能で、何ができないのかを明らかにしていきます。

 「AI VS・・」の中で、「AIはいくらそれが複雑になって、現在より遙かに優れたディープラーニングによるソフトウェアが搭載されても、所詮、コンピューターに過ぎません。コンピューターは計算機ですから、できることは計算だけです。計算すると言うことは、認識や事象を数式におきかえるといううことです。」P165続けて、「今のところ、数学で数式に置き換えらることができるのは、論理的に言えること、統計的に言えること、確率的に言えることの3つだけです。そして、私たちの認識を、すべて論理、統計、確率に還元することはできません。」P165と書かれています。

 ということは、論理的で、統計的な仕事は、AI技術に取って代わられると言うことになります。「AI VS・・」では、アメリカの大学の研究を引用して「不動産登記の審査」「銀行の新規口座開設担当者」などが揚げられています。ばりばりの事務職的な業務は、書類がそろっているか、書類間に矛盾はないか、審査基準にあっているかなど、きわめて論理的です。また、事例の蓄積がありますので、統計的・確率的に処理が可能な分野です。つまりAIが得意な分野といえるわけです。

 では、AI技術に取って代わられない仕事は何か?同じ研究成果を引用して「レクリエーション療法士」「危機管理責任者」「小学校教員」などを紹介し、「コミュニケーション能力や理解力を求められる仕事、介護や畦の草抜きのような柔軟な判断力が求められる肉体労働が多そうです」P171と続けています。

 「コミュニケーション能力」や「理解力」「判断力」をどう高めていくか。それが、今後の仕事を考えていく上で大切になります。そうでないと、仕事を失ってしまう可能性が高くなっているからです。

 新井さんは、その鍵を「読解力」に求めています。確かに相手のいっていることを誤解なく理解することは、コミュニケーションの基盤でもありますから、AI技術に取って代わられないためには、きわめて重要となります。

 最初に書いたように、数学も大切、英語も大切、プログラミングも大切。大切なものがたくさんありますが、その学習を成立させるものは、煎じ詰めれば読解力に収斂されていくにちがいありません。

 本校においては、まず、自分の気持ちを表す言葉を増やしていく、場に応じた言葉遣いを増やしていくでしょうか。自分の気持ちを整理する、場の状況を判断する。そういう力を重視していきたい。それが身につくと、本当に自分の活動の場をつくることができると最近考えています。

進路研修会3 なんとかなるかもしれない

隠岐養護学校長

赤山克司

 1月12日 進路研修会で考えたことの二番目について補足を少々。

「二つ目は、選択する際の迷い・不安をなくすことはできないけれど、知りたい情報を手にすることができ、相談する場があると軽減することはできるかもしれないということ。」

「軽減」とはどのようなことかというと、将来を考えたとき「なんとかなるかもしれない」という思いがもてる時があるということと、私は考えています。

「なんとかなるかもしれない」と言う言葉は、ここ三年研修をお願いしている鳥取大学の三木教授がよく使われる言葉です。

 保護者が、子どもの将来について「 なんとかなるかもしれない」という予感をもつという意味でつかわれる時と、子ども自身が学習の積み重ねで、新しい事柄に直面した場合にあっても「なんとかなるかもしれない」と踏み出していく意味で使われる場合の二つがあるのですが、今回は保護者に「なんとかなるかもしれない」と感じてもらえることの大切さを研修を通じて感じました。

 保護者にもってほしい「なんとかなるかもしれない」という感情は、確信となって持ち続けられるものではありません。日々困ったことがあると、消えてしまう不安定さをもっています。

 これは、本校に関わる方々に限ることではなく、誰にも保証された将来などないことを思えば、当たり前の事実であるはずですが、時として忘れてしまう。忘れて、「こうすれば、大丈夫です」といってしまいたくなる。そんなことを学校が繰り返すと、不安をもつ保護者との間にどんどん溝ができてしまう。そんな危惧をもっています。

 「なんとかなるかもしれない」という思いを、子どもの成長を通じて感じてもらえたら、それが一番なのではないでしょうか。

 けれど、近くにいては、成長は気づきにくいし、そんなに教育活動の成果がすぐにでるものでもありません。子どもの成長は発信し続けにくいのですが、「成長をにつなげるためにこんな取り組みをやっています」という取組の説明、紹介は継続的にできることです。

 加えて、学校での取組が保護者の理解を得て、地域にいわゆる口コミで広がる時、相談という場が地域に生まれたといえるかもしれません。

 卒業生の保護者による研修が、地域での相談の糸口になってくれたらと期待しています。

進路研修会2 安心と楽しさ

隠岐養護学校長

赤山克司

 1月11日の進路研修会で感じた二つのことの内、一つ目について補足をしていきます。

 「一つ目は、進路を決める大きな要素は、学びそして生活している本人の毎日の安心であり、楽しさであること。」

 狭い意味の進路選択とは、どこで学ぶか、どこで働くかを決めることだと考えられます。 たとえば、どこで学ぶかを考える場合、「本人に応じた教育活動」が行われる場所を選択するということになるのでしょうが、「本人に応じた」とはどのような内容を含んでいるのでしょうか。

 すべての教育活動は、「できなかったこと、分からなかったことを、できるように、分かるようにする」という方向性の中で考えられています。

 ですから、小学校に入学する前に「できないこと」が目についたとしても、学校において克服されるという思いをもつことは、自然なことです。そのような期待をもってもらえることは、学校への信頼の現れですから、ありがたく受けとめるべきこととでもあります。

 また、学校は学習の場であるとともに、地域の子どもたちとのつながりの中で生活する場でもあります。学校・学級の選択の際、つながりが続くようにと考えられるのは、これもまた理解できることです。

 ただ、上の二つのことがらは、「本人」の思いをうけての判断とは必ずしもいえません。では、どうしたら「本人」の思いを把握することができるでしょうか。

 やはり本人のその時々の行動をしっかり見ていくことに基本があるように思えます。誰しも「いやなこと」「わからない」ことには消極的であったり逃避的になるはずです。

多 くの場合、最初からやらないということはなく、やろうとしようとしてできず、がっかりしてしまうようです。落胆している様子は、隠しようがないものです。

 「わからない」「できない」ことは、努力で解決できるはず。先ほども書きましたが教育活動は、努力=継続的な取組でできるようになるという考えの上で成り立っています。

 ただ、「苦しさを我慢してということ」のみを努力の中身とすることには疑問を感じます。

 多くの継続的な取組は、「楽しさ」の上に成り立っていると考えることが、建設的であるからです。

 我慢は本人の内面の問題とされますが、「楽しさ」は本人の活動を支える環境・関わりの在り方に注目が集まるものです。我慢の強調は人と人との関係を断ち切りるおそれがありますが、「楽しさ」に着目すると、本人と周囲のよいキャッチボールのような循環がイメージできるはずです。

 「楽しさ」とは苦労・苦痛がないということだけではなく、少々の苦労・手間をおしまず取り組みつづける状態だと考えます。「楽しさ」を感じるレベルはそれこそ成長していきます。でも、本人が取り組み、手応えを感じることが「楽しさ」の基本的な在り方であるとしたら、保育園児が感じる「楽しさ」も、世界レベルに挑む人々の「楽しさ」も「手応え」に支えらていることになりはしないでしょうか。

「手応え」は見ていて分かるものではないでしょうか。

 学習する場の選択にあたっては、「できる」「できない」という二元論に陥ることなく、このような関わり、教材を用いれば本人の意欲が高まっていく、活動に集中しているという「手応え」の部分を丁寧に説明していくことが不可欠でないでしょうか。

 「本人に応じた」は本人の姿から推し量るのが重要であり、本校のセンター的機能の一貫で行っている保育所訪問は、そのような思いで行ってきているものです。

 次回は、情報を伝えるということについて補足をしていきます。